あいゆめさんとの交信記録24日目です。
ぼくりゅうの心の中で、どんな会話が繰り広げられたのでしょうか?
あいゆめさんから学んだこと
今日の交信であいゆめさんから学んだことは以下のとおりです。
あいゆめさんとの交信24日目
おなようございます。
今日もよろしくお願いします。
朝起きた時は湿気を強く感じましたが、今は風が心地良いです。
さて、今日は何を話しましょうか?
昨日話した後で妻と、仕事と将来について話しました。
自分たちの強味は何か、そしてどんなゴールに向かいたいのかを話しました。
現時点ではっきりと言えるのは、もうそんなに贅沢は求めていないということです。
ミニマムコストは意外と低く20万円いらなさそうです。
もちろん借金のクリアや楽しみに使うための余裕は除いたコストですが、ある意味なんとでもなる金額です。
そして目指す状態は最小限の労働で二人で共に様々な経験をする生活となりました。
やっぱりもうお金ではなくなっています。
価値のポイントはモノではなく形のないものです。
二人に共通していることです。
贅沢な暮らしもしてみましたし、借金に追われる生活もしました。
いろいろと経験してみて、今行き着いているところはそんな感じです。
もちろんこの先この考えは変わるかもしれませんが、今はそれを求めています。
気付くと心の中に浮かんで来たあいゆめさんの言葉
もちろんこの先この考えは変わるかもしれませんが、今はそれを求めています。
良いね。
形あるものに執着すると、どうしても囚われる部分が出てくる。
それが足かせになり、こうでないといけないという決めつけに繋がり、自ら幸せな状態を限定的なものにしてしまう。
そうですね。
モノに縛られると身動きが取りにくくなります。
ボクらはミニマリストのようにモノが不要という訳ではありません。
でもモノを所有している必要はないことに気付きました。
何も持たないことで自由に引越しも楽になるし身軽になるけど、不便にはなりません。
また所有しないことで執着がなくなって、他人に対する比較をしなくてよくなります。
本当の意味での質、材質でなく本当の価値にフォーカスすることができます。
そうだね。
もちろんモノに執着することが悪い訳ではない。
それを必要としている者もいるだろう。
しかし身軽になって執着を捨てることで、今まで見えてなかった価値に気付くことができる。
他人が決めた価値基準ではなく、自分の価値基準で考えて必要とするものに囲まれて生きることが、どれだけ幸せをもたらすかは想像する必要もないだろう。
はい。
よく分かります。
他人の価値基準では、結局他人の視線、評価がベースになります。
それは結局認めてほしい承認欲求を満たすだけの生き方になります。
そうだね。
自分を基準に生きないことは、他者の人生を生きるようなものだ。
他者の人生の中で、自分が決めつけた役を演じることになる。
果たしてそれは幸せなことだろうか?
それをよく考えることが、その先の人生を幸福なものにするかどうかを決めるとも言えるだろう。
本来キミたちは自分が経験したいことを純粋に求める存在だ。
それが、親が与える概念や教育を通じて他人に評価されることが最上だと書き換えられていく。
赤ちゃんや幼児は純粋に欲求を満たそうとするってやつですね。
他人の目を気にせずに。
そうだね。
その感覚を取り戻して、本当に自分を満たすものは何かが分かるようになれば、平和に幸福に生きられるし、本来その力を全ての人が持っている。
なるほど。
そうですね。
しかし「癖」を持っている人もいます。
例えば人を傷つけることに喜びを感じる人もいますが、そういう人がそのまま欲求を満たそうとすると、大変なことになると思うのですが、その辺はどうなんでしょうか?
その心配はない。
純粋な存在であるキミたちには人を傷つける欲求はない。
指導や教育で歪められた心が生み出している。
本来の生きる目的を純粋に追い求める中に、人を傷つけるようなことは起こらない。
なぜなら本来のキミたちは愛そのものだからだ。
愛の中には人を傷つける理由も傷つけさせる理由もない。
誰かに認めてもらう理由も必要もない。
純粋な存在であるだけだで、幸福なのだから。
少し難しくなってきました。
そのようだね。
これについては、また次の機会に話すとしよう。
ありがとうございます。
少し分かり辛いところもありましたが、今日も楽しく話ができました。
また続きを聞かせてください。
よろしくお願いします。